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2017年7月

マニラフォルダ

先週末、出張から帰るとマニラフォルダなるものが届いていました。100枚入り1箱です。マニラフォルダはアメリカのレターサイズ用なのでA4サイズの紙を入れると横が約2mm、縦も2mmほどはみ出します。これをどう考えるかですが、このジャストミスマッチのようなサイズ感が使いやすいとか。マニラフォルダと似た個別フォルダは日本製の今日的な高品質な紙で面白くないようです。届いたマニラフォルダはメーカー名と品番、そして「made in USA」とまるでゴム印を押したかのような素っ気ない印のある2つ折りの紙ばさみです。きれい過ぎてほんとにマニラ紙なのだろうかと思ってみたりしますが、日本メーカーでは作りそうにない素っ気なさです。これにテーマ別に資料を放り込んで専用の段ボール箱に立てて入れます。テレビで時々見るアメリカの書庫にあるシステムです。映画「アンタッチャブル」の最終シーン、シカゴのオフィスを離れるときにケビン・コスナーがアル・カポネの有罪判決を報じる新聞から切り抜いた見出しをマニラフォルダに挟んで革のブリーフケースに入れます。続けてピストルのホルダーを外してブリーフケースに無造作に入れたところでマローンが現れます。映画とはいえ出来過ぎの観がありますが、ここぞというシーンで活躍するマニラフォルダです。よくよく考えると私にも使い勝手はよさそうと思い当たりました。ネットで検索すると熱心なファンも少なくないようで輸入販売も堅調と見ました。サイズの異なるメモや新聞の切り抜きなども気にせずにまとめておけます。ここが私にとって大きなメリットです。手帳やノートのサイズを気にせずにメモできます。来週も出張が続きますがメモは荷物を気にせずにチョイスできるようになりました。

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佐野美津男「魔法使いの伝記」幾たびか

来週、新規採用と6年目、11年目の研修の講師を務めることになり、〆切を1日過ぎた今日、当日配布の資料を送りました。キーはやはり「言葉」です。そんなときいつも思い出すのはアメリカの「言葉」であり、佐野美津男の児童文学「魔法使いの伝記」と「翻訳の世界」(1989年2月号)に寄せた「ことばがきえる」です。その「翻訳の世界」がここしばらく見当たらなくて今夜も探したのですが見つからず、以前に書いたものを読み返しました。「魔法使いの伝記」は不思議な魅力がある本です。

無題(06/5/27)
■ふと思い出して本棚を探るときがあります。昨夜は『翻訳の世界1982年2月号』(日本翻訳家養成センター 1982)でした。特集は「童話 ことばのレッスン 分かりやすさだけでいいのか」です。この特集にある佐野美津男の「ことばがきえる」は初めて読んだときから強いメッセージ性を感じるものでした。この文章のどこが私をしてただならぬ胸騒ぎを覚えしめるのか。どんなときにそうなるのか。
■童話という言葉を童謡に置き換えると、やはり同じことが言えるのではないか。佐野美津男のテーマの横にはこの一文がある。「『いつまでもねんね』と思う親、いつしか自立していく子ども…共生的児童文学を断固として退け、子の成長を促せ。児童文学の真の成熟を!」 私も大人の逃避の対象となるような捏造された子どもの世界は受けつけられない。文学でも音楽でも同じだ。佐野美津男が引用するメルロ=ポンティの講義要録『言葉と自然』(滝浦静雄・木田元訳 みすず書房)では、「対人関係と知性と言語とは、直線状の系列や因果関係に配置されうるものではなく、ある人が生きている渦巻く流れに属しているのである。言語行為とは話上手な母親のことである、とミシュレが言っていた。ところで、言語行為は幼児を、あらゆる物に命名し存在を言葉にするこの母親とのいっそう深い関係に導きもするが、それはまたこの関係をいっそう一般的な秩序へと移調もするのである、つまり、母親こそが幼児に、まずは母親の直接性から遠ざかって行く回路-この回路を通って、幼児は必ずしもその直接性をふたたびみいだすとも限らないのだが-を開いてやるのである」とある。言語行為という単語にはフランス語の読みの「バロール」がルビとしてついている。これを音楽行為と置き換えた時、やはり私は共感する文脈を見いだすのだ。童謡なる音楽も幼児をいっそう一般的な秩序へと移調させる役割を本来担っているはずである。音楽と出会うことで子どもが自分を大切に思い、母親や友だちとの間で音楽を共有することで他者との関係性の築き方を覚える、つまり、一般的な秩序へと移調させていくのである。ただ、そうなればいいのであるが、一歩間違えると、母親なるものとの共生から自立できなくなる。音楽はその力の大きさゆえに音楽を扱う仕事に就く者の責任もまた大きいことを肝に銘じておくことが必須だ。
■若尾裕はカワイの『あんさんぶる』連載の「音楽は生きている」(No.423 2002年3月号「ナポリの音楽療法ヨーロッパ学術大会その2」にこう書いている。「Aという人とBという人との間に音楽が成り立つということは、この二人の間に共有の音楽文化があるということだ。ではAという音楽療法士と、Bという、例えば5才の自閉症児の間ではどうだろうか?やはり、AとBの間には共有の音楽文化が成り立つことを音楽療法の前提にしている。だが、こういった音楽文化については心理学や医学で論じることはまったくできないのである。科学の方法論では、なぜ音楽は存在するのかといった哲学的な問題は扱えないのだ。そこに関わることができるのは、哲学、美学、音楽学などの文系の学問なのである。」教育もそうなのだが、今は数値で評価を求められることが多い。アカンタビリティ(説明責任)を果たすプロセスの中でそうした量的評価も必要となる部分もあるが、音楽療法、教育とも、量的評価傾倒からの揺り戻しが始まっているように私は思えてならない。この流れは歓迎するものの、果たして、「哲学、美学、音楽学などの文系の学問」で語ることができる土台が音楽療法や教育の現場にあるのかどうか、危惧するところだ。いくら価値ある実践を積み重ねていても、そのよさ、価値を伝える言葉をもたないとそのよさも価値も伝わらないことが少なくないし、また、致命的なこともある。
■こうしたことをあれこれ考え、腑に落ちる言葉を探して綴っているのは、発達障害の子どもたちの成長とQOLの保障について考えることがこのところ多いからです。
■上田義彦写真集「at home」(リトルモア 2006)が届きました。B4版と小柄ですが、厚さはなんと3.3cmもあります。柔らかなトーンのモノクロはライカと銀塩フィルムの成せるところで、写し込まれた人の存在のリアリティとでもいうのでしょうか、日常の営みの意味の重みが伝わってきます。この写真集は一押しです。折しもSONYのデジカメ、サイバーショットR1のコマーシャルで“似た”写真を見ました。お母さんの胸に抱かれる赤ちゃんの写真です。レンズはカール・ツァイスです。でも、でも、ちがう。銀塩モノクロフィルムとはちがう。別物です。
■夜、NHK-BSで映画「今そこにある危機」“CLEAR AND PRESENT DANGER”を途中から観ました。主演はハリソン・フォードです。主役が徒党を組まない設定は映画のストーリーの定石ですが、ハリソン・フォードが演ずると格別の感銘があります。私も徒党を組まないことを肝に銘ずる。

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奈良にて

昨日、奈良市写真美術館と中宮寺に行ってきました。奈良市写真美術館は企画展の本橋成一「在り処」(ありか)がお目当てです。本橋成一の作品はチェルノブイリ原発の事故後の現地の写真が目に留まって彼の写真を意識してみるようになりました。(「写真」なのか「作品」なのか、言葉の選択に迷います。)「在り処」には収録されなかったのですが、ナージャという女の子が「教室に散乱する教材の中から遊び道具を探す」「ナージャにとって放射能のことより、友だちがいなくなったことのほうが悲しい」の2枚でした。今回の写真展では200数十点というかなりの作品を鑑賞することができました。オリジナルプリントでしかわからないものがあります。写真集「在り処」の帯には「アラヤシキ、雄冬、与論、炭鉱、上野駅、藝能東西、サーカス、賭場、チェルノブイリ」とあって、彼の仕事の集大成といえるでしょうか。これらのテーマの中で昨日も感じたのは、チェルノブイリの写真の造形的な構図感でした。絵画とも思えるような印象です。それがチェルノブイリ原発の事故の犠牲となった人々の抜け出せない現実の厳しさを一層強く伝えているように思います。

中宮寺は思惟半跏像に会いたくて行きました。コンクリート造の本堂は意外でしたが、薄暗い本堂に鎮座する思惟半跏像はある意味仏像を超えた存在のように思いました。ただただ静かな佇まいでした。それが見る人の心を静めるのでしょう。本堂の3方の扉は開け放たれ、通り抜ける西風が時間の流れを忘れるのを辛うじて止めているかのようでした。

久しぶりのリフレッシュの一日となりました。

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「BELIEVE」

勤務校の開校式でした。子どもたち手作りの胸花でお客さまをお迎えし、子どもたちが司会進行を行うなどやわらかな文脈を心がけ、フィナーレは「BELIEVE」(「ビリーブ」杉本竜一作詞作曲)をみんなで歌いました。今日の「BELIEVE」はこれまで聴いたどの演奏よりもやわらかであたたかくて包み込む力があり、併せてめざすところを示してくれているように感じました。感無量でした。子どもたち、教職員、お客さまみんなが一体感に包まれていたように思いました。感謝、感謝でした。ひとつ、大切な節目を越えました

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This is Language.

山崎佳代子著「ベオグラード日記」を知ったのはあるツィートでの引用でした。これはただごとではないと思いました。Amazonの同書のレビューもまた私の言葉欲をそそりました。「熱く冷たい言葉の数々」とは言い当て妙だ。そして、今週届いた山崎佳代子の詩集「秘めやかな朝」はその研ぎ澄まされた言葉がさらに透明感を増して私の目に映りました。詩にこんなにも惹かれるのは久方ぶりでした。

言葉、といえば映画「13days」でマクマナラ国防長官が発する一言が意味することろに思い巡らします。「This is Language.」(これは言葉だ)ペンタゴンで直接指揮をとるマクマナラが軍の挑発とも受け取られかねない行動を激しく制し、この言葉で一喝します。それは文民統制を象徴する台詞であり、アメリカが言葉を大切にしてきた歴史の1コマでもあると思います。次の引用は私のサイトからです。

言葉(03/9/27)
■9月20日の朝日新聞の「天声人語」にたいへん共感するセンテンスを見つけました。それはアメリカ合衆国の独立宣言、憲法、権利の章典の原本が修復を終わり、ブッシュ大統領が出席して公文書館の式典が催されたことにまつわる記事です。
■「独立宣言などの建国文書について米紙が興味深い言い方をしている。『米国は言葉によって、その存在を高らかに宣言した』『これらの文書がなければ、この国は存在しなかったとさえいえよう』。そして『言葉が大切なのだ』。文書を収めるケースは『神殿』と称されるらしい。あの国にとって、建国文書がいわば、『三種の神器』なのだ。」(朝日新聞「天声人語」から 2003.9.20)
■このところ、言葉の大切さ、重みを実感するエピソードが数多くクローズアップされてきています。マニフェストもそのひとつです。インフォームドコンセントも個別の指導計画もそうです。こうした言葉たちはそのひとつひとつが具体的な姿あるものや数値を扱っています。同意だけでなく合意を目指しています。そして、人と人との関係性についてもこうした言葉で扱われようとしています。でも、関係性は直接確かめることはできません。だからこそ言葉で確かめ合うものなのです。“約束”という言葉が甦る。

1週間後の土曜日は勤務校の開校式です。言葉がキーです

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