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2016年9月

無題

週末が巡ってくることのなんと早いことかと毎週末に思います。ここしばらくたくさんのことがいきなり結びついたり、あれは伏線だったのかと思い出すことが続いています。自分がそういう認識をしているに過ぎないといえばそれまでですが、そう考えることができるのは自分しかいない。自分の人生を語るのは自分しかいないのです。

先週末の日曜日の夜8時、JR伊勢市駅前から西に向かう県道を車で走っていたとき、FM放送でドヴォルザークの交響曲第8番の第3楽章がちょうど始まりました。久しぶりに聴く第3楽章でそれとは予期せぬFM放送からです。どうしてこの時ここでこの曲なのかと一瞬戸惑いがあって胸が熱くなりました。シャッターが閉められて人通りのない商店街に沿った空いた薄暗い道にト短調の3拍子の舞曲が目に見えて流れていくようでした。何が必然で何が偶然なのか、時間軸に織り込まれた断片が何かしらのきっかけで解き放たれて目の前に現れ、それがまるで伏線だったように自分の中に落ちてくる。こんなことが続くといつしか予感が訪れる。そして、予感はあったはずなのに予期しない訪れのように事が連鎖して起こるのだ。今週はそんなことが仕事でもありました。忙しくなりますがやり甲斐もまた相応の手応えがあることがわかっています。しっかり掴んでいきたい。

明日の沼津行は本とジャスミンティー2本を持って電車に乗り込みましょう。

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聞き書き、という営み

今日は大失敗がありました。オーケストラの練習に行く前に団のサイトで時間を確認すると予定が変わっていて今月の練習は終わっていました。この夏はスケジュールが合わなくて練習に行けず、また、予定も確認していませんでした。

時間ができたので気になっていることを確かめることにしました。先週、知人に私のブログとホームページのURLをお知らせしたのですが、そういえばどんなことを書いていたのだろうとのぞくと自分でも驚くことがありました。「南の風」のホームページを立ち上げたのは勤務校のバリアフリー花壇、持ち上げ花壇を紹介するためでした。それが1998年、18年前のことです。日記風の文章を載せ始めたのは2001年でした。よくこんなにある意味まめに書いたものだと驚きつつ、その記述が今の自分につながっている軌跡そのものに思えました。とりわけ私の琴線に触れた文章や詩、エピソードは私の思考のの節目となってきたことがわかりました。そして、自分がその時々に何を感じ、思い、考え、どんな言葉でそれを書き留めてきたか、今となっては大切な記録です。話が飛びますが、聞き書きとはこんなことなのだろうかと思い巡らせます。

10月1日土曜日、沼津市で開催されるNPO法人ユートピアの聞き書きワークショップに行きます。講師は「神、人を喰う 人身御供の民俗学」や「驚きの介護民俗学」の著者、六車由実さんです。内容は「すまいるかるた」作りで聞き手と語り手の双方を体験できるものと期待しています。私が共感するのは聞き書きといっても一方的な聞き取りではないという点です。聞き手と語り手が双方向に言葉にうなずき、新たな展開に導かれて新たな話題へと次々とつながる。「驚きの介護民俗学」でこうした記述を読んで意を得たりと思いました。教育も学習内容はしっかり押さえながらもそこに至るプロセスはその場にいる子どもたちと先生が双方のやりとりで構築していくことこそこれからの社会を自らの協働で作っていく力となるのではないでしょうか。興味は尽きません。

そういえばホームページのURLが変わってアクセスカウンターがサービスから外されたのに今日見たら引き続いてカウントされていました。運営会社側の変更なのでサービスを戻したのでしょうか。納得の対応です。

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エテュード・アルモニーク

このブログの右に「検索フレーズランキング」が表示されるようになっていて、時々意外なフレーズが表示されるのでちょっと注目しています。今日は「エテュード・アルモニーク萩原英彦」と出て驚いています。誰がどんないきさつで検索したのだろうと。

「エテュード・アルモニーク」は萩原英彦の子どものためのピアノ曲集です。私はこの曲集をレコードで知り、CDで買い直しました。楽譜の発売は1994年、22年前とか。少しばかり意外です。もっと前の出版だと思っていました。というのは、この作品や湯山昭や三善晃らの日本人の作曲家による子どものためのピアノ曲に関心をもって楽譜などを集めていたのはもっと前のこと、私が20代半ばの頃だったからです。10年くらいの開きがあります。例えば北村知恵の「子どもの目の高さで歌おう」は1983年(昭和58年)の出版で、その翌年に北村知恵の公開レッスンに参加して子どものためのピアノ曲のリサーチにさらに関心を高めることになりました。これは私の単なる記憶ちがいか。彼の合唱曲「光る砂漠」は1971年の作品で私が中学校2年、大学の時この合唱曲を知って聴き込みました。私の中では萩原英彦は一定の年代でまとまっているので単なる思い込みか。

このピアノ曲集は「子どものための」との位置づけですが、フランス音楽のような印象派の香りがいっぱいの素敵な作品だと私は思っています。左手のための曲もあってちょっと冒険的でもあります。ある意味子どもらしくないようにも思えますが、こうした曲に子どものとき出会っていたらちょっとちがうピアノとの付き合い方が生まれるのではないかとも思うのです。小学生の頃習っていたピアノでバッハに出会う機会がなかったことは今も残念に思っているくらいです。今どきの子どものピアノ事情はどうなのでしょう。

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ポンチ絵

仕事上ポンチ絵を描くことが時々あります。この連休も週明けに提案する内容をまとめなければならずプレッシャーでしたがそれはそれで発想のエネルギーにもなります。2日でなんとかポンチ絵を1枚仕上げました。キーワードは「インリーチ」という言葉でした。造語です。「アウトリーチ」の対義語としました。新しい取り組みは概念を表す言葉、キーワードが文字通り鍵となります。決まったら言い切ったもの勝ちの勢いで真っ直ぐアピールしていきます。かといって100%新しいことばかりではありません。教育は時として取り組みや営みの意味や価値を説明しないことでその真意などが伝わらないことが少なくありません。自分たちがしていることの説明によって共通理解につながり、中長期的な指導支援が有意に継続できると考えています。このポンチ絵をたたき台として対話が重ねられることによってシェイプアップと共有が進むことを切に願うばかりです

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夏休みが終わって2学期が始まりました

次々と到来する台風が去って風が変わりました。8月いっぱいは毎年時間がなかったり猛暑に用心したりで物事が進まず、今年も同じでした。ただ、ひとつちがったことがありました。積極的にアプローチしたところには欲しかった情報があり、そこから芋づる式に本、本、本へとつながっています。今以て現在進行形です。あっという間の“夏休み”でしたが収穫は小さくありませんでした。一言でいえば長期的に物事を考えることができるようになったということでしょうか。そのための言葉との出会いがたくさんありました。

夏休みが終わって2学期が始まりました。2学期の始業式は7回挙行しました。本校舎と病棟、そして、大学病院の院内教室と病室です。私はスポットで登場するのみ。子どもたちと先生方とのその時々の営みこそ学校を学びの場としています。入院中の学校は子どもたちが子どもらしさを取り戻す場です。併せて、小中学校、高校にも病気や心身に不安を感じている子どもたちはたくさんいます。配慮しつつもどの子ものびのびと学ぶことができる環境づくりを探っていきたいと思っています。

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