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2016年3月

エル・システマ

今日、相馬子どもオーケストラがベルリン・フィルと協演したことがニュース番組の中で放送されました。2年前の4月6日日曜日の朝、NHKの「明日へ-支えあおう-桜を奏でて~福島・相馬「音楽」の絆~」で震災被災地でのエル・システマの活動が特集されました。(エル・システマについてはこちらから)怪獣の名前は「ラ」で終わるものが多いがオーケストラは「お金がかかる怪獣」だということを聞いたことがあります。奏でるのはちょっと取っつきにくい印象のクラシック音楽。ところがどうしてどうして、ベネズエラで始まったエル・システマの実績はそうした懸念を払拭するものであるばかりか子どもたちの成長に大きく寄与し、地域社会に力強いメッセージを発信するものとなっています。そのエル・システマが東北大震災の被災地で始まったのです。オーケストラの楽器はどれも簡単に奏でることはできません。一人ひとりの小さな努力と奏で合わせる営みの繰り返しです。子どもたちがそのステップを一つずつ進んで成長していく姿、それは、きっと豊かな未来があるという気持ちにさせてくれるのです。

音楽や美術などのアートそのものと音楽療法などのセラピーとの間、そもそも間があると言っていいのかどうかも吟味が必要なところですが、その間、ギャップのようなものはやはりあると思える場面は少なからずあるように思います。例えば、入院している子どもたちを対象とした音楽療法と、優れた演奏家の音楽に触れることは少なくとも同じではない。では、どこがちがうのだろうか。音楽療法が医師から処方されるなどの制度面のちがいではない。その場の音楽、奏される音楽、流される音楽そのもののあり様のことだ。このことはずっと私の中で渦巻いている疑問で、もしかしたらそうかも知れないと気づいたこと、それは、音楽を奏する者の音楽に対する謙虚さです。でも、これはアートとセラピーという間にあるのではない。そのどちらにいるかによるちがいではない。それはわかっているはずなのに、でも、アートとセラピーの間には何かしらのちがいがあるように思えてなりません。それともその場の人と人との関係性だろうか。音楽にふれるとき、私は、自分がアート寄りにいると思うとき、また、セラピー寄りにいると思うとき、そのどちらもあります。そもそもそれは両義性を含むことですが、でも、どうしてこんなにも悩ましいのだろうか。音楽を聴くだけだったら、たぶん、こんな悩みはないのだろう。音楽を意図的に使うとき、音楽にも人にも最大限の謙虚さと思慮深さを欠いてはならないことだけは確かだ

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風邪

今週、デスクワークが続いて身体を冷やしてしまい、不覚にも風邪を引いて病院に行くことがありました。症状は37度台の発熱と頭痛で、インフルエンザではなかったものの味覚などの感覚がおかしくなって不思議な体験をしました。何でもない物音が頭に響いて不快感があったり、加工度が高い食品は刺激が強くて食べられなくなったりです。言い換えると、人の手が加わってないもの、状態ほど、人にやさしいということだろうか。とりわけ今回の味覚の“わがまま”は食事だけでなく他の生活スタイルにも及ぶものがあるように思いました。こんなとき、自分のカフェを開きたいと思うのだろうか。

3月も半ば近くになって年度末、新年度という節目がすぐ近くに迫ってきました。ここ10年、年明けから年度末にかけて費やすエネルギーは年々大きくなってきていますが、その結果は正比例してきていると見ています。結果といっても常に変化し続けるプロセスから切り取った1シーンです。少々大胆になってもいい時期かも知れません。また、それが役回りだと思っています。風邪でそんなことを考えるひとときがありました

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