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2009年9月

ブラームス、情緒、白州次郎、幸せの黄色いビオラ

この連休に自宅でいちばん長時間聴いたのはブラームスの交響曲でした。大掃除中もラジカセで流していました。カラヤンのブラームス交響曲全集がお手頃価格だったので購入した次第です。重厚にして華麗、それが私のブラームスの印象です。ブラームスの肖像は長い白髭の老人が一般的のようですが、若き日の彼はモデルのような二枚目です。シューマンの妻、クララに恋していたエピソードも若き日の彼を知るとなぜかわかるような気がします。ブラームスの楽曲も。美しく節度のある音楽ではないでしょうか。私がいちばん好きな交響曲は第2番です。学生オーケストラで最初に弾いた交響曲ということも理由のひとつです。ものごとを冷静に考える落ち着きを情緒に与えてくれます。ねばり強さの大切さも。この次に柳月堂に行くときはブラームスの2番をリクエストしましょう。

久しぶりに買ったカメラ雑誌の特集は「構図の決め方」です。デジタルカメラ雑誌がスペックばかりでなく絵心にアピールするコンテンツにシフトするのは自然の成り行きでしょう。絵心が満足しないと写真を撮る意味が見出せなくなる、つまり、達成感や満足感は写真と情緒でかかわることで得られると考えるからです。カメラも然り、でしょう。レタッチでどうにでもなると思われがちなデジタル写真もカメラメーカーの個性はやはりある。フィルムはもっと個性がありました。フィルムの個性が創造力を刺激する。このフィルムだったらこんな写真を撮りたい、また、こんな写真はあのフィルムで撮りたい、というわけです。そうしたことがデジタルカメラでも可能になってきたように思います。各メーカーのベクトルがはっきりしてきたからです。受光素子の種類やローパスフィルターの有無、そして、画像処理のアルゴリズムで差別化を図ろうという方向性が製品に意図的に反映されてきたというところでしょう。物理的には優劣があってもその特性なり個性を「味」として表現する力量がフォトグラファーの感性と技量に委ねられる。いわばフィルム選びです。こうしたことを踏まえた上で写真や映像を観ると様々なことが考えられて実におもしろい。また、画像処理のアルゴリズムを含むカメラやレンズを作った技術者の思いや製品化の意志決定のプロセスも見えるようだ。Canon EOS D30からデジタル一眼レフを使っているので私もあれこれ考えてしまうのですが、私のデジタルカメラで写真を撮るスタイルはフィルムカメラのときと同じことが基本だと思うこの頃です。つまり、シャッターを切る瞬間に全てを決めてしまうというものです。レンズや感度、Canonのピクチャースタイルのように彩度も明度もコントラストも全て決めてシャッターを切ります。レタッチはその時間がないからね(*_*)

今夜はNHK-TVで白州次郎のドラマの最終回が放送されました。情緒にこだわりますが、彼が彼たる所以は彼の行動を決めたのは情緒ではなかったのかと思われるところです。

連休の前に新聞の折り込み広告でビオラの苗が出始めたのを知って連休2日目に行ってみたら完売寸前で急いでカゴに入れました。4連のポットで苗の状態は上々でしたが、翌朝に植え替えようとしたら萎れている苗があったので水をたっぷりやって夕方に植え替えることにしました。いつも不思議に思うことですが、花の苗は植え替えるとすぐに一回り大きくなるように感じます。しばらくはその調子でどんどん大きくなる。そして、花は人によく見られる所に置くとより大きく成長して花もより華やかに咲くように思います。2種類のポットに計16本植えたビオラは全部黄色です。よりよき春を迎える願いをこめて幸せの黄色いビオラです。

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京都 柳月堂

行けたら行きたいと思っていた京都に行ってきました。暑くもなく寒くもなく、雨もほんの一時ぱらぱらとしただけという、観光ではない今日の旅の目的に集中できる絶好の条件がそろっていました。いちばんの目的は名曲喫茶、柳月堂でした。

柳月堂の高い天井と広いスペースは家庭では聴けない音楽を聴かせてくれます。高性能のオーディオシステムは個々の楽器の音を解像して聴きたい音を聴かせてくれます。今日はベートーヴェンのピアノ・ソナタ「月光」、シュトラウスの「美しき青きドナウ」、私がリクエストしたモーツァルトのピアノ協奏曲第20番(ブレンデル&マリナー)、チャイコフスキーの「悲愴」に文字通りひたりきって聴き入りました。柳月堂は一時閉店したこともあるとのことですが、店内に「since 1953」とあるように半世紀以上も音楽を聴く場を提供しています。ノーベル物理学賞の益川教授も常連とか。ここで得たインスピレーションがいかほどのクリエーションに結ばれたことかと思いました。脳の洗濯とは言い過ぎか。

写真は柳月堂のレシートで次回のチャージ料がサービスになるというもの。データは、OLYMPUS E-P1+M.ZUIKO D 14-42mm ED、ASA400、P-mode、+1.7、JPEG です。レシートの下は京都出町柳の地図で、いかにも見せようという意図が前面に出て落ち着きに欠けます。この写真で難しかったのはレシートの白、ピュアホワイトの感熱紙の質感で、+1.7補正はモニタで確認して設定しています。JPEGはレタッチで崩れるのでシャッターを切るときの設定が全てです。この写真もリサイズのみです。今日はOLYMPUS E-P1を追い込んで使いました。E-P1は写真を撮る道具としては趣味の域のものと思います。デジタル一眼レフのようにはいかない。でも、趣味の域ということではデジ一では撮れない写真が撮れる道具でもあります。ボディやインターフェイスで詰めてほしい点もいくつかありますが趣味性の高さだけでない+αの実力もあると思います。14-42mm EDのマイクロ・フォーサーズ専用レンズもボケがやわらかくてきれいです。
Rgd090922


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情緒

日曜日の朝日新聞の読書特集「漂流 本から本へ」で筒井康隆がこんなことを書いていました。「小説などにうつつを抜かしている時ではなかった。大学受験が迫ってきていたのだ。成績は最低点に近く、音楽や美術の成績がいくらよくても入試とは無関係である。(中略)勉強しなければならなかったのだが、どうしてもやる気にならなかったのだからしかたがない。」こう書いた筒井康隆は同志社大学で美学を学んだと知ってなんだか腑に落ちるものがありました。同志社大学文学部美学芸術学科は私が第一志望で入れなかったところなのです。思春期、とくに十代後半に出会った文学や芸術はその人生を決めるインパクトがあると聞いたことがあります。私も然り、なのです。ひたすら小説を読み、音楽を聴いて受験勉強が手につかなかった。浪人はしましたがその頃の真っ直ぐな日々は時を経る毎に今の私を支えてくれていることがますます鮮明になってきています。理路整然とした考え方が大切であるように情緒も同じように大切だと考えます。決断するときは情緒が決めるとさえ私は感じることがあります。『国家の品格』(新潮新書 2005)を著した藤原正彦氏は「祖国とは国語」をテーマにした講演でこう述べています。「『学問』とは、語彙の習得であり、思考を言語化することである。国語を学習する目的は次の3点である。①読書を通して国語力をつけることにより教養を身につける。②国語力をつけることで、論理的な思考ができる。③論理の出発点となる仮説を選択する力である情緒を養う。」情緒は豊かな語彙で育まれるだけでなく、文学や芸術、人との様々な出会いが情緒の核そのものを育むのだと思います。

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9月の日曜日のポコ・ア・ポコ

9月の日曜日のポコ・ア・ポコは11家族のみなさまに来ていただきました。初めてのご家族が3組みえました。お子さんもご家族も少し緊張してみえましたが動の中の静をきっちり感じ取っていただいてそれはそれは整然とした空間となりました。前回は7月、2か月ぶりのお子さんたちはしっかり成長したたくましい姿でした。運動会の練習の日焼けもたくましさを演出しているのでしょう。さて、来月はインフルエンザの流行がピークを迎えるという説があります。ポコ・ア・ポコは開催できるでしょうか。

朝刊に『加藤周一自選集』全10巻(岩波書店)発売開始の広告があって早速第1巻を予約しました。ところが発送は1か月後との表示でした。そんなに予約が入っているのだろうか。新聞広告の加藤周一の写真の横に「私とは誰か、を決定するのは、私ではなくて、他者である」とあります。言葉はちがいますがラカンの考え方とも通じるところがあります。少し前に精神科医と思春期のメンタルヘルスの話をしていて「いろんな人がいて、相対的に自分の居場所を見つける」という話がありました。誰もがいつかは気づき、ときに悩みます。悩んで気づくという順の方が多いでしょう。私たちは他者、外界との関係の中で生きています。今あるいいとこ探しから始まる第一歩を踏み出すことの意味を年々強く感じるようになってきています。もちろん、夢は大きく!

昨日は高校の学園祭に行ってきました。生徒が作ったという苔玉を1つ買いました。おすすめはアスパラガスとのこと。繊細な葉がきれいだ。それにしても運動系クラブの高校生が苔玉を作って学園祭で販売するという発想はどんな経緯で生まれたのだろう。「自分たちで作ったの?」と聞くと「はい!」と笑顔で答えてくれました。飲食物を販売する模擬店群から少し離れた場所にあって客足もまばらだったのが残念でした。全校生が自分たちの企画で係を担当したり、模擬店で焼き鳥やかき氷を買ってグループで食べたりする姿から高校生のストレートなエネルギーが伝わってくる頼もしい学園祭でした。

5連休も2日が終わりました。今回は家の大掃除や庭仕事です。1日くらいカメラを持ってどこかに出かけたいと思いますが、道路はたいへんな渋滞のようです。さて、どうしようか・・・

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カッチーニの「アヴェマリア」

昨日は音楽運動療法の表題でアップしたところ1日で500件を超えるアクセスをいただいて驚いています。Yahooの「急上昇ランキング」で関連ブログのトップになっていてこれにも驚きました。それだけ昨日の番組の反響が大きかったということです。それだけ音楽運動療法に関心が集まっているということです。それだけ音楽運動療法に頼りたい方がみえるということです。運動ということ、それは身体の動きを伴うということです。そこに音楽が入ると身体で音楽を聴くことになります。音楽の調和のとれた構造が身体と心を整えてくれます。そこが「身体で聴く音楽」「四次元の構造化」という言葉で表す私の仮説で、私の音楽療法のセッションのテーマであり、核心です。

Kokia、亜紀子の逆さ読みの歌手で、カッチーニの「アヴェマリア」をiTunes Storeで探していてまさに巡り会いました。ekoこと山田英津子もいいけどKokiaも聴かせます。クラシックを勉強しただけあって声のコントロールの安定感がいい。いろいろまとめて聴いてしまいそうです。その「アヴェマリア」ですが、私のiTunesにはカッチーニの「アヴェマリア」は8つの演奏が入っています。この曲の詩は「アヴェマリア」という言葉しかありません。まさに「アヴェマリア」です。私がいちばん好きな「アヴェマリア」です。ピアノで左手で和音を弾き、右手は鍵盤ハーモニカでメロディーを奏でるのもなかなかのものです。

さて、iPhoneは日常の慌ただしさに否応無しに巻き込まれて文字通りの実用品となっています。使い勝手はすこぶるよくて少なからず刺激的です。ヌメ革のケースに入れるためにバックケースを外してヌードで使っています。わずか1mmもないケースでもあるとないとでは感覚的に大きくちがいます。手にジャストミートするiPhoneのデザインと質感に納得です。キズは勲章としておきますが意外に丈夫です。ただ、しかし、バッテリーは私の使用環境では半日持てばいい方で、それでもiPhoneを使う覚悟かと自問自答もしてしまいます。当のiPhoneは涼しい顔をしていますがバッテリー管理はかなりの覚悟を要します。1日3交代!? だから32Gもあるメモリに音楽を入れて聴く気にもなれません。実用的なアプリケーションをインストールして実務マシンとしてしばらく使うことにしていますが、それでもインスピレーションを刺激する不思議な物体です。

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音楽運動療法

ここのところのデスクワークが一段落して束の間の一息です。外に出ると澄んだ空気の夕焼けがとてもきれいでした。秋は夕日が楽しみです。帰りにポコ・ア・ポコのご案内葉書を投函してなんだか幸せな気分になりました。

夜、テレビ番組の「ベストハウス123」で音楽運動療法を取り上げていました。私は6年前に野田燎氏の研修会で体験セッションを受けたときのことを思い出しました。後にも先にもあのような体験はしたことがありません。私のホームページにそのときのことが書いてあるのでコピー&ペーストしておきます。今はこのような長文を書く時間はありませんが、それだけなく、あの時だからこそ書き得た文章であり、私にとっては財産でもあります。そして、音楽のことをまた考えています。

『ひかる・かいがら』~野田式音楽運動療法(03/8/28)
■元ちとせの『ひかる・かいがら』ばかり聴いています。昨日、初めて聴いて、心に残る歌のひとつになりました。
■昨日は兵庫県三田市の財団法人ひょうご子どもと家庭福祉財団主催の療育研修会「野田式音楽運動療法」に行きました。1998年に放送されたNHKの「トモ君がしゃべった~音楽運動療法~」の野田燎先生の研修会です。
■午後は野田先生のチームのスタッフ5人が加わってセッションの体験がありました。私は野田先生の1番指名! 音楽療法の研修会で男は目立つのだ。
■トランポリンで跳んでいるときに音楽が加わることで身体の調整力が格段に上がるのがすぐわかりました。もちろん、ピアノは跳ぶ私にリアルタイムで合わせてくれます。フォームがくずれてジャンプのタイミングがずれてもピアノは絶対離れない。すごいものだ。曲がリクエストのバッハから「平均率第1巻第1番」になると、1跳躍を6つに刻む音が私の覚醒レベルを一気に上げて頭の中が澄み渡ったような感覚になりました。このまま続けると自分がどこかに行ってしまうような気がしました。野田先生によると宇宙飛行士が無重力状態で神を感じたという感覚なのだそうです。脳生理学的にはドーパミンの産生がアップしたとのこと。音楽運動療法は障害がある子どもたちの発達支援やパーキンソン病、脳卒中後のリハビリに大きな治療効果を上げて医学的実証も進んでいます。私は自分が体験することでその力の大きさと心地よさがわかりました。
■野田燎先生のチームはスタッフが5人来ていました。それぞれ得意分野があるようで、クラシック、ジャズ、アニメ、ポピュラーなどなど、曲によって交代してピアノを弾きます。弾き手が変われば音楽も変わります。でも、野田先生のスタッフは誰が弾いても、そして、歌っても、「患者さん」に寄り添う真摯な姿勢と心地よさはキープされています。音楽運動療法のスタッフは大学で音楽を勉強してきた人からピックアップするとのこと。大事なのは「センス」とのこと! センス…それぞれの音楽がもつメッセージ性を感じ取れることが大事だとも…。その音楽の感じ方をどうやってスタッフに伝えるのか、音楽の使い方をどうやって伝えるのか、もっと具体的な言葉で教えてほしかったのですが、これはやっぱり難しいですね。
■だれが歌っても、と言いましたが、昨日、歌を担当したのはひとりのスタッフでした。模擬セッションで、トランポリンに仰臥位になった人ひとりのためだけに歌う『ひかる・かいがら』は今まで聴いたことのない力を秘めていました。私はその歌に、そうですね、文字通り心を奪われたというべきでしょうか…。誰かのために歌うことはすごい力を秘めているものだ。
■昨日聴いて体験した野田式音楽運動療法のセッションは、誰かのために奏でられる音楽とはどんな音楽?ということを考えさせられ、また、教えられました。ピアノも野田先生のサックスも歌もたいへんクオリティの高いものでした。歌を苦手としている私にとっては、療法の空間における歌のひとつのシンボルを聴いた思いがして、研修会後、歌を担当したスタッフに話を聞かせていただきました。「患者さんのためだけに歌う」とのことで、療法の場面では誰もがそう思っているはずなのに…やっぱりセンスだろうね…
■音楽運動療法のクライアント体験で、奏でる音楽の2拍目の重要性をまた思いました。先日、FM放送でキース・ジャレットがチェンバロで弾くバッハの『ゴールドベルク変奏曲』を聴いて、やはり2拍目の重みのことを考えたばかりでした。2拍目はそのフレーズのベースのテンポを決めます。キース・ジャレットの『ゴールドベルク』の冒頭は、2つ目の音がいつ奏されるのかわからないくらいのスローテンポです。2つ目の音を待つまでのほんの何分の一秒かの間は聴く人にたいへんな緊張を強いる。不安になる。この張りつめた空間は危ういほどの美しさで私は好きなのだが。昨日、トランポリンでバウンドした直後、もちろん、バウンドの瞬間は1拍目で、バウンドした直後に続く2拍目がクライエントの動き、予想からずれると不快感どころか跳ぶテンポも身体の調整力も乱れてしまうのだ。もっとも、その曲は私に合わないのを意図的に選んで比較するためのものであったが。
■野田式音楽運動療法の模擬セッションではほんとの音楽に出会った思いがしています。こうした音楽にはめったに会えません。誰かのために奏されることがはっきりしている音楽、それは音楽が本来内包している機能であり、音楽の力であり、その秘められた力をこの空間に、音の、空気の振動として再現し得る技こそ真の音楽の使い手のみなし得る技なのだ。昨日はただごとではない体験をしました。
■野田燎先生が言われるようにひとりのクライエントだけのセッションをもちたい。でも、現実は厳しいものがあります。どうしても集団のセッションをせざるを得ない。もちろん、集団でしか成し得ないことがある。ミュージック・ケアはその意味でたいへん優れたメソッドです。でも、それだけではいけないと思う。集団セッションと個別セッションとの効果的なコンビネーションが発達につまずきのあるお子さんひとりひとりに必要です。

野田式音楽運動療法から学んだこと(03/8/31)
■野田燎先生が模擬セッションでサザンのリクエストがあって『TSUNAMI』を演奏した後、堰を切ったように話し出しました。「今までのことはええやん、明日からのこと考えよう」そういう歌、ということで、サザンの『ホテル・パシフィック』の1コーラスをサックスで吹いて、そして、『真夜中のナイチンゲール』のフルコーラスをサックスと歌で奏でました。『さよなら大好きな人』も。そのときの野田先生は音楽好きな素顔を見せてくれたように思いました。
■誰でも好きな音楽への想い入れは言葉にできないくらいもののがある。その想い入れを伝えるいちばんの方法は自分で奏でること。その音楽をニーズとしている人への共感として奏でる音楽は譬えようもなく真摯なものだ。野田先生が音楽療法の中で独自の道を歩まれることになったことの理由と意味がわかったように思いました。音楽のジャンルを問わず、その音楽に秘められたシチュエーションを自分のものとして追体験することでクライエントの物語を共に紡ぐのだ。適切な選曲をして最高の演奏を提供することで。これは、でも、みんながしていることではないのか!? 野田先生のセッションはトランポリンを使って脳を活性化して音楽の文脈を受け入れやすくしている。運動を伴うこととクライエントに寄り添う最高の音楽を提供することが野田式音楽療法の核だと思う。お母さんが子どもを抱っこするとき、自然にリズムをとって揺らしながら歌うではないか。それは誰もがしていること。子どもをあやすことは自分自身をあやすことでもある。子どもが泣き止んで安らかな気持ちになるとお母さんも幸せになれる。人として当たり前のこんな営みの意味深さをもう一度考えてみたいと思う。音楽療法だからといって難しいことを考える前に、ウィニコットの「たった一人の赤ちゃんなんていない。赤ちゃんはいつも誰かの一部なんだ。」という人を関係性の中で捉え、理解しようとするスタンスの意味を今一度考えたい。
■野田燎先生の模擬セッションは音楽とは何かということを考えさせてくれました。あの空間に自分がいたことをとても幸せなことだと思っています。私の人生から欠くことのできないひとときでした。

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残暑に注意!

今日は第44回三重県知的障がい者福祉大会の「仲間を作ろう本人の会」を担当させていただき、ミュージック・ケアでひとときを過ごすこととなりました。今年は成人の方がほとんどで、落ち着いた和やかなセッションとなりました。終わってから「シュタイナー教育と通じるところがありますね」と声をかけていただきました。シュタイナー教育は私も少し勉強したことはあるものの、音楽療法で意識したことはありませんでした。「ひとりひとりをとても大切にしているところ」とのことです。私はシュタイナーの文脈を肌で感じたことはありません。興味津々ですが、何はともあれミュージック・ケアの底力をあらためて知ったセッションでした。

昨日は今日のセッションで使う“カップ”を作りました。といっても淡いターコイズのフェルトが調達できなくて同色は6個しか作ることができませんでした。淡い藤色も作ってみましたがフェルトの生地が頼りなくていまひとつでした。ネットで探してもこれまでの色はなくて、さて、どうしたものかと思案中です。バチの毛糸も傷みが目立ってきました。しっかりメンテナンスしなくてはなりません。

9月はさわやかな秋空とともに始まりましたが翌日から厳しい残暑が続きます。今日、昼過ぎのアテンザの外気温時計はなんと41℃! この夏いちばんの高温でした。自宅の庭はさながら砂漠で、先日、土を掘ってみたら20cmくらいまで水気のないさらさら状態で驚きました。草さえも枯れているものがあります。残暑に注意!

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「ギルバート・グレイプ」と「鉄道員」

NHK-BS2で映画「ギルバート・ブレイプ」が放送されました。録画したので今夜は所々しか観ていませんが、何度観ても言い様のない感情に駆られます。アメリカンドリームのかけらも見出せない出口がない日々、閉塞感、でも、そこに生きる人たちがいる。些細な出来事に心を揺らせながら生きている人たちがいる。この映画は観ることにかなりのエネルギーを要しますが、ピーター・ヘッジズの原作(高田恵子訳 二見書房 1994)は淡々と読ませます。それだけにもっと生々しいのですが、どこかしら出口も感じさせます。それぞれ独立した「作品」と思わせる原作と映画です。

映画で知的障がいがある弟アーニーを演じるのはレオナルド・ディカプリオです。素晴らしい演技です。ディカプリオは当時19歳、役のアーニーは映画の中で18歳の誕生日を迎える設定です。表情はもちろんですが、指の不器用さと身体のアンバランスがアーニーの生きづらさをストレートに表現しています。映画では主な登場人物の身体の動きが台詞以上に多くを伝えていて学ぶところが多い映画です。「目は口ほどにものをいう」といいますが、身体はそれ以上に饒舌ではないでしょうか。

今夜は日付が替わってからやはりNHK-BS2でイタリア映画「鉄道員」が放送されます。これもまた名作です。私が弱いイタリアの「貧乏物語」です。悲しくて切なくて、でも、目をそらせられない現実の生活があってそこに生きる人たちがいる。ワーキングプアが社会問題になっている今、この映画はまた注目される文脈を含んでいると思います。

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