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能管を聴く

今週は能楽囃子を聴く機会がありました。能は小さな頃から身近にあったのでとくに珍しいものではないのですが、今回は演奏のレベルが群を抜いて高く、ただただ圧倒されました。音の決まり方というのだろうか、囃子=音楽の構造が目に見えるように明確でエネルギーに満ちていました。そして、合わせることの緊迫感はジャズと共通するところがありました。まさにセッションです。また、五人囃子と舞の姿形も美しいと思いました。姿形が美しいものは機能も優れているものだ。生みだされる音楽も音楽としての機能を高いレベルで備えている。こうした優れた演奏は聴く人の覚醒レベルを一気に引き上げてしまう。五人囃子と謡の中では、私はやはり笛に惹かれます。音高を自在に渡っていくような旋律のゆれが戦慄や呼吸のゆれを誘う。音楽に弄ばれているような感覚になります。西洋の音楽とはちがうエネルギーを感じます。龍笛と能管、それぞれにいいものですが、今回は能管の奏での激しさに魅了されました。奏者と私との間の空気がダイナミックに動いて目に見えるようでした。

カレーやみそ汁を作っていてもリビングのライトを消してジャズを流すとジャズ喫茶かカフェのカウンターにいる気分になりますが、昨夜はカレーに「篤姫」の音楽だったのでまたちがう空間でした。音楽にもドラマにもすっかり魅了されてしまった「篤姫」です。ところが、先日、『本』2月号(講談社)に掲載の町田明広氏の「『篤姫』に描かれなかった幕末史」を読んでいて驚くというかおかしくなったことがあります。NHKの大河ドラマ「篤姫」の「功罪」についてのところです。「一方の『罪』は、そのストーリーによって『歴史的事実』が書き換えられてしまったことである。まさか、篤姫と小松が本当に幼馴染みであったと信じている読者はいないと考えたいが、そのほかにも困った点は数多く存在する。たとえば、小松帯刀を世に送り出してくれたことは、賞賛に値する大事件であったが、倒幕に反対する平和主義者という設定はいかがか。また、島津久光の扱いにも、個人的には不満が残る。登場シーンでは毎回のように力んでおり、保守的な側面ばかりが強調され、残念無念である。本当の久光は、古今稀に見る政治家であり、卓越した政略・眼識の持ち主である。久光なくしては、幕末史は回天せず、西郷・大久保も歴史に名を刻めていなかったはずなのだ。」私はその「まさか」で、篤姫と小松帯刀はほんとに幼馴染みだと信じていました。さすがに幕末に江戸城で碁を打つシーンはフィクションだと薄々感じていましたが、そうは思いながらも食い入るように見つめる自分がいて、それもいいではないかと思っていました。ところがである。篤姫と小松帯刀が幼馴染みということそのものがフィクションだというのです。これにはおかしくなりました。あそこまで真剣に観ていた自分は何だったのかと。でも、それでもなお、それでいいと思うのです。それくらい私にとっては感動するドラマと音楽でした。篤姫が自分で確かめないと気がすまない人として描かれていたところ、そして、篤姫は自分の思うことを信じるところにたいへん共感しました。逆に、ドラマの島津久光はいささか役不足で不自然に思っていたので町田氏の一文で納得しました。それにしても筆者の歴史学者、町田明広氏は小学生の頃にNHKの大河ドラマにのめり込んだことが後々大学で学び直すことにつながったとか。『本』に掲載のエッセイは実におもしろい。

明日はポコ・ア・ポコです。午前中に新しいシャボン玉を試したりバチの毛糸のほつれを直したりと、これは楽しいひとときとなるでしょう。

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コメント

町田明広氏ご本人からコメントをいただいて恐縮しています。
ご著書はぜひ読ませていただきたく思っています。

投稿: 南の風 | 2009年3月21日 (土) 00時59分

今回、取り上げていただいた本人、町田明広です(^^)
拙著そのものも、ぜひご拝読いただきたく存じます。
今後ともよろしくお願いいたします。

投稿: 町田明広 | 2009年3月19日 (木) 21時56分

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