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2008年5月

コンテクストに合う話

久しぶりに発達障がいについての講演を聴きました。自閉症という言葉ではなくPDD(広汎性発達障がい)という言葉で自閉症スペクトラムを表す話は初めてでしたが、これは大いに腑に落ちるところがありました。自閉症という言葉、診断名はそろそろ他の言葉に換えるべきではないのかと思います。また、発達障がいのあるなしに関わらず、人は人間関係によって成長するという考え方にも共感しました。PDDの原因が生理学的に明らかになってもこのことは“真”であり続けると私は考えます。2000年に国立特別支援教育総合研究所で受けた石川知子さん(当時筑波技術短期大学教授)の講義は今も私の考え方の拠り所です。次のブロックは当時の私のメモです。(南の風のホームページ「久里浜だより2000.5.20」より)

自閉症の定義はICD(WHOによる『国際疾病分類』)とDSM(アメリカ精神医学会による『精神障害に診断ならびに統計のための手引書』)がレジメにあります。石川先生はそれらの定義を「散文的な叙述」と言われました。また、その診断をする際の判断について「コンテクストに合っている」という表現もされました。「コンテクスト context」には「文脈」という訳語があります。でも、これはひょっとしたら日本語にはない概念かも知れません。「文脈」という訳語は誤解が生じるかも知れません。人は自分の体験や経験の上に立ってその時その時の理解なり判断をします。その判断の流れがcontextではないでしょうか。話をしていて「ああ、やっとわかった」と思うときがあります。「腑に落ちる」という表現の仕方もあるでしょう。それはcontextとして理解し得たということだと思います。

今日の講演は私にとって“コンテクストに合う話”でした。

さて、BESSAの“グレースペシャルセット”が届きました。マットグレーにシルバーのカラースコパーはただただ端整な佇まいです。保証書を見ると“新古品”か。ボディもレンズもケースも使用感は全くなし。ただ、ファインダーのレンズに指紋が付いていて、でも、それは下手に清掃されずに届いたということです。やわらかいガーゼの乾拭きでクリアになりました。そのファインダーはライカのM6を凌ぐとか。私はライカを知りませんが、それもそうかも知れないと思うほどの透明感です。LR22を2個入れてシャッターを切ると芯のある金属音がして実に頼もしい。アテンザもそうですがこのBESSAとカラースコパーも“今”に続く文脈に思いを馳せてしまいます。

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『白州次郎 占領を背負った男』

昨日は勤務校が交流学習をお願いしている小学校の運動会に行ってきました。子どもたちが生き生きと活動する姿がいい。ほんとにいい。そして、地区の民生委員児童委員の方からたくさん話を聴かせていただいて、地域のみなさんの期待に応える特別支援学校でありたいと思いをあらたにしました。

帰宅してカレーを作りました。一晩寝かせたカレーはおいしい、たしかにそうですが、忙しい中作ってすぐ食べるカレーがおいしくないというのはいただけないと、少しばかり工夫をしてきました。そして見つけたカレーは食材がレアなカレーです。じゃがいもが煮崩れせずにエッジを残して仕上がるように、そして、ピュア・カレーパウダーを少し加えて香りを付けます。これはなかなかいけます。カレーは煮込みがすべてではないと思う次第。使っているピュア・カレーパウダーの賞味期限が2003年で5年も過ぎていることは、関係ない、はず(^_^);;;

今日は午後から古本屋に出かけて北康利著『白州次郎 占領を背負った男』(講談社 2005)を買いました。この本はNHKの「その時歴史が動いた」で白州次郎を特集した頃の出版です。歯切れのいい文体が白州次郎の人となりをさらに浮き彫りにしていて実に痛快な本です。単なる伝記ではない。混迷の中にある現在の日本は白州次郎の筋の通し方を学ぶべきであろう。“principle”を大事にすることだ。そして、彼が車好きで最後の愛車がポルシェ911だったことも彼を身近に思う大きな理由です。

さて、カメラのこと。ここしばらく銀塩の引力に抗し切れず、Voigtlander BESSA R2A + カラースコパー35mmF2.5(シルバー)の“グレースペシャルセット”の中古を購入となりました。程度は“新同”でメーカー保証書付、それで65,800円というのは話がうま過ぎると思いつつもまたとない出物との判断です。小学生のとき、父からカメラの手ほどきを受けて距離まで目測というマニュアル機を使っていました。次にマミヤのレンジファインダー機、高校ではキャノンのキャノネットというレンジファインダー機、大学の頃はニコマートのマニュアル一眼を使ってきました。完全機械式のカメラが潔いと思いましたがこの出物はとりあえず確保しておきたいと思いました。

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novel

京都に出張でした。病弱教育の会議です。京都は真夏を思わせる日差しと暑さで、夏のスーツでも汗が出てきました。この暑さも私にはなつかしい。市バスのアナウンスの「次は西洞院六条です」という声を聞いたらもう学生の頃にタイムスリップしてしまいました。「にしのとういん」というやさしい響きでぐらっときて、「六条」からは『源氏物語』の六条御息所の生霊の話を思い出しました。大学の講義で聴いた『源氏物語』の音読はただただ優しく雅やかでした。古い木造の洋式建築の教室に空気のように流れた玉上琢彌先生の音読は今も思い出します。

セバスチャン・フィツェックの『治療島』を読み終えました。ここ何年か、小説を小説として堪能する読み方を忘れていて、ほんとに久しぶりに文字通りのnovelでした。novelとは斬新ということ。知らない世界に続く扉を開けることです。そもそも「サイコスリラー」とよばれる読み物は初めてだったのでその感は新鮮だったこともありますが、しばらく小説の読み方を忘れていたという思いがあります。小説を読むにはエネルギーを必要とします。小説は全身全霊で読むものです。だからこそnovelには斬新という意味が付されている。読む者の心身を非日常に浸らせるもの、それが小説だと思います。

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東京の灰色の空

今朝のテレビで東京は荒天、京浜東北線が不通になっていることを知って、出張が今日でなくてよかったと胸を撫で下ろしました。昨日は病弱教育の会議で日帰りで東京に出張でした。病弱教育の特別支援学校は在籍する子どもが減っていますが潜在的なニーズは増えています。全国レベルを含めた支援のネットワーク化が急務です。全国特別支援学校病弱教育校長会と国立特別支援教育総合研究所が編集している病気の子どもの支援冊子は今年度中に国立特別支援教育総合研究所のホームページからダウンロードできるようになります。日本の病弱教育のスタンダードとして活用されることを願っています。第1版は小児白血病を取り上げています。

東京の空は低い雲に覆われていて降りそうで降らない1日でした。人が多くて建物がひしめき合っていて、大地震が来たらどうなるんだろうと思いながら街を歩いていました。中国の四川地震は規模の大きさにただただ驚くばかりです。ミャンマーのサイクロンの被害も大きい。アメリカのハリケーン、カトリーナもそうだ。阪神大震災もすごかったが四川地震はその30倍のエネルギーという。日本は小さな島国ですが、自然災害も大陸のそれと比べると規模も小さいといえるでしょうか。そして、民主主義の大切さもあらためて思いました。昨日の東京の灰色の空は印象的でした。

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サイコスリラー

シューマンのピアノ協奏曲のCDは持っているはずと探しましたが見つかりませんでした。ネットでディヌ・リパッティのアルバムを見つけてなつかしくもあり、この演奏だからこそと取り寄せました。オーケストラはカラヤン指揮のフィルハーモニア管弦楽団で録音は1947年です。60年前ですがディヌ・リパッティはいつ聴いてもコンテンポラリー性を感じます。自分で奏でられるのならこんなに奏でたいという演奏です。

フィルター枠がガタついて修理に出していたTAMRONのSP AF17-50mm F/2.8 XR Model:A16Eが戻ってきました。このトラブルは何件か出ていて保障期間を過ぎていても無償修理扱いとなるようです。私のA16も“保障内”でした。このレンズは35mm換算で28〜80mmをカバー、F2.8にもかかわらず軽量小型で高品位レンズを使用していてすこぶるいい使い勝手です。色調がアンバー寄りでこれは好みが分かれるところですが、カリカリとしたレンズが多い昨今、このレンズのやわらかな描写は価値があります。Kiss DXに着けっぱなしです。だから壊れたのかな?

今週買った本はセバスチャン・フィツェックの『治療島』(赤根洋子訳 柏書房 2007)で、私にとっては初めてのサイコスリラーです。いつ読み始めるのか、そのことも“サイコ”かも知れない。心理の深淵を感じるこのごろです。

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「みんなのうた」の大人の歌

5月の日曜日のポコ・ア・ポコは11家族のみなさんに来ていただきました。松阪市サマースクールのスタッフも5人参加があり、大勢でにぎやかなセッションとなりました。こうした活気も取り入れてメリハリのある場としていただきました。ご参加のみなさんに感謝しています。

YouTubeで探し物をしていて伊東ゆかりが歌う「ママのイヤリング」を見つけました。この歌はNHKの「みんなのうた」の曲で、私はこの歌を聴いたことがないのですが、楽譜を持っていてピアノで弾いてお気に入りの1曲となりました。今日初めてオリジナルを聴いて、伊東ゆかりの歌は思っていた通りでしたが伴奏のリズム感がちがっていました。ピアノで弾くと前半の3連符をハーフペダルで余韻を引くように出したくて少しスローテンポになってしまいます。楽譜にある作曲者のアドバイスに添って奏でようとするとそうなってしまいます。この歌は何気ない日常を描いたものです。大好きで憧れているママのようになりたいと思っている小さな娘にとってママのイヤリングは素敵なママになるための秘密が隠されているのかも知れないと思いを巡らせてしまうシチュエーションです。でも、この歌は大人の歌です。NHKの「みんなのうた」にはそんな歌が少なくありません。「きっと しあわせ」や「水色のワンピース」「がんばれ マイ・ボーイ」も大人の歌です。それにしても、あれだけヒットした「きっと しあわせ」がYouTubeになくて「ママのイヤリング」があるのもおもしろい。
「ママのイヤリング」

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私のカラヤン

先月、昭和の日、伊勢の朝熊山のスカイラインをアテンザでドライブしているとき、FMのスイッチを入れたら豊穣な弦のアンサンブルが流れてきました。すぐには曲名を思い出せなくて、でも、きっとシューマンだろうと思いました。曲はピアノが入ってきて、そう、シューマンのピアノ協奏曲の3楽章でした。浴びるように聴いてしまう曲です。初めての曲でも誰の作品だかわかるときがあります。シューマンはただただ美しい。

携帯キャリアのサイトの「ピアノが好き♪」の書き込みが好きで時々読んでいます。ピアノが好きなことがストレートに伝わる記述がいい。曲のことが書いてあるとその曲が聴こえてくるようです。楽器店のピアノ売り場でピアノを選んでいる親子の姿も微笑ましくてとてもいいものです。いつまでもピアノが好きでいてほしいと、そんなことを思いながら近くで楽譜やピアノを見ている時間も好きです。

今朝の朝日新聞にカラヤンの特集記事がありました。私もカラヤンが好きでした。ドラマチックな音楽作りがたまらなく好きでした。当時の『月刊PLAYBOY』のインタビューがとりわけ興味を引きました。「あなたは感覚的ですか?」「私は感覚的です」そんなやりとりでした。感覚的はsinlichというよなスペルのドイツ語が併記してありました。「技術先行の演奏とレコーディングではないのか?」「私は私の感じるままに奏でているだけだ」 私もそうだと思った。突き詰めるとカラヤンの音楽になるのではないかと。それは研ぎ澄まされた感覚でこそ奏で得る音楽。私は自分のスピード好きを思うとカラヤンがジェット機を操縦したり大型バイクを駆っていたことが過る。モーツァルトの「レクイエム」K.626はカラヤンの演奏がいちばん好きでした。でも、カラヤンが好きだとはちょっと口に出せないのがその頃のクラシックファンでした。ところが、その後、カラヤンのモツレクをiTunesで購入したのですがあの頃のあのドラマは感じられない。彼の演奏が私の中で増幅されて私だけのカラヤンとなってしまったのでしょう。

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命にまつわるエピソード3話

「子育て川柳」の入賞作品を伝えるNHK-TVのニュースをみていて関係発達の典型的なエピソードと出会いました。大賞は「私でも ママになれたよ ありがとう」です。面白可笑しい作品はたくさんあったことだと思いますが、この一句を大賞とした選者たちのセンスに脱帽です。インタビューで作者のお母さんは「私をママと呼んでくれて、ママになったんだと思いました」というようなコメントでした。子どもから「ママ」と呼ばれて自分が「ママ」になったことを実感することは関係発達の最たるエピソードです。子どもを産んだだけで「ママ」になったのではなく、子育ての日々の中で子どもから「ママ」と呼ばれ慕われて、「育てー育てられ」という相互の関係の中で「ママ」は「ママ」になっていく。太古から受け継がれて来たこの当たり前の営みを素直に詠んだ一句が大賞に選ばれるのは、でも、今日の危機へのアンチテーゼかも知れません。

これもNHK-TVのニュースです。多臓器移植のために渡米中のそうたろうくんの近況を伝える特集で、渡米前のそうたろうくんが闘病中に漢字検定にチャレンジする姿に私の目は釘付けになりました。そうたろうくんは8歳、小学校2年生のこの2月、漢字検定5級に合格しました。5級というと小学校6年修了相当です。ベッドで漢字を勉強するそうたろうくんの目は真剣そのもので、彼にとって漢字検定は何なのだろうと思いました。そうたろうくんにとっての漢字検定の“機能”です。病院内の教室(学校)で学ぶ子どもたちは、ときとして、どうしてそんなに一生懸命勉強するの?とたずねてみたくなるときがあります。私は仕事柄学問体系を学習する意味は十分わかっているつもりですが、そうたろうくんのように命をかけて病気と闘っている子どもたちがそこまでして勉強をする理由は何なのだろうとあらためて自問してしまうことがあります。学びは外界を構造化して認知させ、自分と外界との係わりを明らかにして定位感と自己肯定感につなげる。病院で治療を続ける子どもたちの姿は学びの意味を私たちに目に見えるものとして教えてくれます。

今日の中日新聞朝刊の書籍のページで取り上げられている『家庭のような病院を』(佐藤伸彦 文藝春秋 2008)の記事はナラティブがキーワードでした。この本はナラティブホームの構想の中心となった医師の著作とのことです。「・・・ナラティブアルバム制作である。あるいは医師がカルテに、患者との会話や患者の独り言を記録するナラティブシート作り。こうした作業によって、それまで異なる世界にいた患者に個々の物語が付与され、患者と家族と医療関係者との間に共通の理解の場が生まれる。」 個人の尊厳を守ろうとする医師の良心が伝わる書評です。「人は言葉をあびて成長する」(荒川)だけでなく、人は言葉を紡いで命を全うするのだと思う。

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